ダーク ピアニスト
―叙事曲1 Geburtstag―

第5章


 「おまえがルビーか?」
男が訊いた。
「うん。そうだよ。あなたは?」
「ギルフォート グレイスだ」
低い抑揚のない声で応える。
「ギルの目、すっごくきれい……。それに、とっても背が高いんだね。父様より大きい?」
見上げる子供の目は好奇心に満ちている。が、ギルフォートは心の中で舌打ちする。ジェラードは確かに預けたい者がいると言った。が、それがこんな年端もいかない子供だとは思わなかったのだ。

「おれの身長は192センチだ。おまえの父親は何センチなんだ?」
訊いてみると子供は急に不安そうな顔になり、あとずさるように言った。
「知らない……」
「じゃあ、おまえの身長は何センチだ?」
「わからない」
「ふん」
恐らくルビーの身長は150センチにも満たないだろう。
「年は幾つだ?」
念のため訊いてみた。
「15」
少年は答えたが、とてもそうには見えなかった。そして、彼は普通の子供とは違っているのだとすぐにわかった。ジェラードの意図が読めなかった。こんな子供を託してどうしろというのだと、男はルビーの無邪気そうな瞳に映る空を見て思う。

「ねえ、どうしたの? 遊んでくれないの?」
「おまえは何をして遊びたいんだ?」
子供に訊いた。
「鬼ごっこ!」
ルビーが言った。
「よし。なら、おまえが鬼だ。おれを捕まえてみろ」
「わかった。それじゃあ、10まで数えるね」
言うと子供は手で目隠しすると早速数え始めた。そんな子供の様子をギルフォートは観察した。
「アインツ(1)、ツバイ(2)、ドライ(3)……えーと、次は何だっけ?」
指の隙間からそっと目を開けて覗く。
「フィーア(4)だろ?」
「うん。そう。フィーア……それから?」
と、もう一度覗う。
「もういい。数えなくていいから、すぐに来い」
言うなり男が走り出す。すると子供はうれしそうに彼を追って駆け出した。が……。振り向くと子供はもう息を切らせて苦しそうにしている。まだ、20メートルも行っていない。

「どうした?」
声を掛けると子供はまた笑って走り出す。ギルフォートはまた少しペースを上げる。が、子供は付いて来なかった。どうもルビーにはいろいろと問題があるようだ。こんなことではとても訓練など成り立たない。彼は足を止め、子供が追いつくのを待った。しかし、その姿が見えない。
「妙だな」
そう呟いた時だった。
「捕まえた!」
突然上方から声がした。次の瞬間。子供の腕がその首に絡みついて来る。
「おまえ……。何処から現れた?」
見逃す筈がなかった。視界は開けていたのだ。あとから来た子供が彼を追い越すことなど出来ない。

「ぼく? あの上から来たんだよ」
子供は花壇の向こうの東屋を指差した。
「あの屋根の上を越えて来たの」
と得意そうだ。
「屋根の上だって?」
俄かには信じられなかった。が、子供はにこにことして言う。
「ねえ、もっと面白いことをしようよ」


 そこでギルフォートはラズレイン家から少し離れた所にある運動場へ連れて行った。そこは、グルドの組織が管理する訓練施設の一部でもある。ちょっとしたグラウンドだ。そのトラックのラインに立たせてギルフォートは言った。
「あの旗の所まで走ってみろ。タイムを計ってやる」
彼の手の中のストップウォッチを見つめて子供は言った。
「走ったらこれを貸してくれる?」
「ああ」
「それじゃ、ぼく走るね」
と言ってルビーはスタートラインについた。姿勢はいい。が、合図を送る前に子供は勝手に駆け出した。が、ギルフォートは一瞬の遅れもなくタイムを測る。飛び出しのフォームは完璧だった。何処かで正式な訓練を受けたことがある。そんなフォームだ。それに、スピード……。

「速い……」
それは少し意外に思えた。ルビーには運動能力に問題があるのではないかと考えていたからだ。が、もしかすると、それは大きな間違いかもしれない。記録は……。彼が手にしたそれを見た時だった。突然子供がペースダウンした。あれ程美しく整っていたフォームが乱れ、息を切らしている。50メートルのゴールまでほんの7、8メートルだった。が、徐々にその足は遅くなって止まった。
「どうした? ゴールまではすぐそこだぞ」
何歩か近づいて声を掛ける。と、子供は僅かに振り向いて言った。
「疲れた」
「何?」
「もう、走れない……」
子供が言った。確かにその額や首筋に少し汗をかいているようだった。しかし、見たところ顔色も悪くないし、別段変わったところはないように思えた。

「もう少しだ。走れ」
「でも……」
子供は渋い顔をした。が……。
「まだ走れるさ。そうだろう?」
そっと背中を押す。その勢いで子供は再び前へ進んだ。
「わかった……」
そう言ってルビーは駆け出す。
「よし。それでいい」
ギルフォートはストップウォッチを見た。とその時。ゴール近くまで行っていた子供の足が乱れた。そして、そのままパタンと倒れて動かなくなった。

「おい!」
慌てて駆け寄る。が、子供は地面に伏したままぴくりともしない。
「ルビー?」
目を開かない。
「ルビー」
様子がおかしい。脈を確かめた。そっと抱き起こして仰向けにする。華奢な身体は人形のように息をしていなかった。
「馬鹿な……」
心拍が止まっている。

――もう、走れない……

泣きそうに言った少年の黒い瞳……。固く閉じたその瞼に長い睫の影が落ちる。ギルフォートは急いで心臓マッサージを始めた。
(何てこった……)
彼は思った。持病があるなどとは聞かされていなかった。たったこれくらいのことで発作を起こすようでは……。

――ねえ、何をして遊んでくれる?

屈託のない無邪気さで子供は彼を見上げていた。それは、かつて彼が身近に感じていた笑顔と同一のものだった。

――お兄ちゃん

頭の中に浮かぶ弟のそれを振り切って彼は必死にマッサージを続けた。唇の端が少し青ざめて見える。
「救急車を……」

――お兄ちゃん、見て! 鳥がいっぱい!

空一面の鳥の羽ばたきと救急車のサイレンが重なる……。そして、救い得なかった弟の記憶……。
「もう、死なせない……」
子供は弟のミヒャエルに似ていた。発達障害のあった弟に……。ルビーもまた普通の子供とは違う。神に選ばれし魂の子供……。

――神は決して人に乗り越えられない試練をお与えになることはありません。君の弟はその試練を持って生まれたとしても立派に乗り越えることができる。この世に幸福を、君や両親に喜びをもたらすために遣わせられた者なのですよ。神に選ばれし子らなのです

昔、教会で聞いた言葉……。
神から選ばれた子供……。
何故、今更そんな言葉を思い出すのか、ギルフォートには理解できなかった。

――神により選ばれた

その言葉を信じることなどできなかった。幸福をもたらすために……。確かにミヒャエルの笑顔は彼に安らぎをくれた。しかし、そのために悲しみは深くなる。亡くした時の衝撃が大き過ぎて今も過去を引きずっている自分がいる。それが彼にとっては許しがたい事だった。確かにミヒャエルはいろいろな喜びや幸福を持って来てくれた。しかし、死んでしまっては何にもならないではないか。生き抜かなければ幸福など有り得ない。チャンスを掴むこともできない。強くならなければ、生きて、強くなって勝たなければ、ルビーやミヒャエルのような子供は社会の心ない者達によって汚され、邪悪な鎌によって刈り取られてしまう。

――ねえ、何をして遊んでくれる?

(その笑顔を絶やさないような社会を作るためにも、おれ達のような仕事をする者が必要なんだ)
そして、ルビーは守られる存在から守るための存在へ変わるためにここへ送られて来た。
「だから、死ぬな」
微かに呼吸が戻って来た。心臓が動き始めた。しかし、意識は戻らない。ギルフォートはそっと子供を抱えるとラズレイン家に向かった。


 彼らの姿を見つけたエスタレーゼが驚いて駆けて来た。
「ルビー! 一体どうして……!」
ぐったりしている子供を見て彼女は動揺した。
「少しトラックを走らせたのですが、急に倒れて、一時的に心肺停止を起こしたんです。心臓マッサージをして、今は落ち着いて脈も呼吸もしっかりしています。が、意識も戻らないし、一度、病院で精密検査を受けさせた方がよいと思うのですが……」
「救急車を……」
心配そうに訊く彼女にギルフォートは頷いた。
「頼みます」
彼女は飛ぶように駆けて行った。ギルフォートはゆっくりとそのあとを追って歩き出す。

とその時、子供が静かに目を開けた。
「病院……?」
消え入りそうな声で言った。
「気がついたのか?」
子供はもたれていた男の肩に手を突いて言った。
「ぼくを病院へ連れて行くの?」
「ああ。出来れば大きな病院で……」
何気なく言ったその言葉が引き金となって弾けた。
「Nein(ナイン)!  Nein! いやあーっ!」
子供の体が発光し男を弾き飛ばした。煉瓦の壁に背中から激突し、ギルフォートは唸った。子供は十数メートルも向こうの花壇の前に座り込んで呆然としている。一体何が起きたのか、俄かには信じられなかった。が、現実として今、目の前にいる子供がその力を使った。
「おまえは……」
そちらへ向かおうとする男の姿を見て、子供は怯え、慌てて向きを変えて駆け出した。
「待て!」
だが、子供は振り向かない。どんどん花壇の奥へと駆けて行く。つい先程まで心臓が止まってぐったりしていたとは思えない速さだ。しかし、長く持つ筈がない。ギルフォートは慎重に近づいた。

風がそよそよと高い木の葉を揺らしている。そこは石で出来た大きな花壇の一角だった。薔薇が咲き、芳しい香りを辺り一面に漂わせている。その薔薇の中ほどに子供はいた。頭を下げ、背中を向けて縮こまっている。大人の視線からはどう見ても丸見えだ。
「出て来い」
男は言った。
「それで隠れているつもりか?」
ゆっくりと近づいて行くその足音に子供は振り向いて言った。
「来るな!」
「何故?」
男が言った。
「だって、いやだよ! ぼくを病院に連れて行こうとするんだもの」
意味がわからなかった。
「来るな!」
もう一度子供は叫ぶ。そして、薔薇の枝を折ると構えてみせた。

「どういうつもりだ?」
子供の目がギンと鋭く光を帯びた。
「来るな! それ以上近づいたら……」
「近づいたら?」
歩幅を詰めて彼は言った。
「どうするつもりだ?」
「殺す」
子供は薔薇の枝の先を向けた。
「そんな物で人が殺せるものか」
「殺す!」
子供がそれを投げつけた。光を帯びたその枝は鋭利な刃物より鋭く男に向かって飛んだ。
「殺意……!」
信じられなかった。が、目の前にいる子供の目には憎悪の炎が燃えている。瞬時に彼はピストルを抜き、それを撃った。薔薇は砕け、硝煙の匂いの中に散った。それを呆然として見上げる子供。その額に銃口を突きつける。子供は瞬きもせずにじっと男の顔を見つめた。

「おまえの負けだな。観念しろ」
唇の端を少し上げて男は言った。子供はじっとしたまま黙っている。と、その時。いきなり子供が茂みから飛び掛かった。男の手から銃を吹き飛ばし、前傾姿勢から腕を伸ばすと鋭利な刃物と化した爪で突く。光の一閃。男は咄嗟にその手を払ったが、熱い何かが胸に残った。そして、下から突き上げて来た子供の左手をかわし、後ろに跳んだ。子供は今度こそとばかりに右手で胸元を突く。が、男は子供の脇へ回るとその手首を押さえた。
「畜生っ! 放せ!」
押さえつけられてもがく子供。
「暴れるんじゃない。腕の骨が折れるぞ」
捩じ上げられて悲鳴を上げる。
「いやだっ! 痛い! 放して!」
まだじたばたと暴れる子供を黙らせるために力を加える。
「あうっ……!」
子供は遂に泣き出した。

「どうだ? 降参するか?」
子供はまだひくひくと小さな抵抗を試みていたが、どうにも敵わないとみると諦めたようにくたりと首を垂れた。
「放して……」
「なら、もう馬鹿な抵抗はしないか?」
「しない……」
言うとようやく爪の先に宿っていた憎しみの光が消えた。
「よし」
ギルフォートが力を緩めるとさっと手首を引き抜いた。手首は少し赤くなっている。その手をさすりながら子供は俯いていた。

「どれ? 大丈夫か?」
男がぐいとその手を掴む。うっと子供が顔を歪める。
「ん? そんなに痛い訳が……」
見ると袖の間から血が流れている。
「何だ? 見せてみろ」
いやがる子供を捕まえて袖をめくる。腕のあちこちに掻き傷が出来ていた。
「薔薇の茂みになんか飛び込むからだ」
ギルフォートはそっとその腕にハンカチを巻いてやった。
「あとで消毒をしないと……」
「うん」
子供は素直に頷いた。

遠くでサイレンの音が響いている。
「来たようだな。せっかくだからあれに乗って行くか?」
「いやだ!」
子供はがたがたと震えながら首を激しく振る。
「何故それほどまでに病院がいやなんだ?」
「だって……病院は人を殺す」
「反対だろ? 病院は人を助ける所だ」
「ちがう! 病院は人を殺す! 殺す! 殺す!」
暴れる子供の手を取ってギルフォートは言った。
「落ち着け。何があったのかは知らない。だが、約束しよう。おまえに酷いことをする病院に行かせはしない」
「ほんとに?」
不安そうに見上げる視線……。
「本当だ」
それを聞くと、ルビーはほっとしたように微笑した。

「病院には行かせずにもっと遊んでくれる?」
「ああ。一度家に帰って傷口に薬を塗ったら……」
「うん。わかった。ぼく、あなたのことが好きだよ、ギル」
笑って言った。
「ほう。さっきまでおれを殺すつもりだったんじゃないのか?」
「うん。でも、今はちがうの。
だって、あなたはぼくにやさしくしてくれたもの」
「やさしい?」
「傷にハンカチ巻いてくれた」
そうしてルビーは笑う。純真無垢な子供のように……。

――選ばれし子供

「それに、病院には行かせないって、遊んでくれると言ったもの」
そう言うとルビーは花壇の方へ駆けて行く。そして、地面を這う虫に話し掛けてうれしそうだ。
(神の存在など信じない。ましてやその神に選ばれる者とそうでない者がいるなどと……。だが、ルビーは……)
ギルフォートはその先にある答えを自らの目で確認したいと思った。

その夜。ギルフォートは自室で上着を脱ぐと鏡の前に立った。ワイシャツのボタンを外し、胸をはだける。白い胸にくっきりと3本の傷が10センチ程に渡って斜めに付いていた。

――殺す!

黒い瞳が爛々と輝き、光を帯びたその爪が宙を裂く……。
「いい目をしてた……」
彼はサイドボードからウイスキーのボトルとグラスを出す。それからグラスに氷と酒を注ぐ。
「あの子供……」
男はグラスを持つとそこに反射する光にルビーのそれを重ねた。
「ルビー ラズレイン……今夜はおまえに乾杯しよう」
そう言うと彼はグラスを傾け、一気に飲んだ。そして、彼は封印した医学書の梱包を解き始めた。


 それから、毎日のカリキュラムが作成され、少しずつ訓練が始まった。何しろルビーは体力がない。ずっと何年も地下室や病院にいたのだから無理もなかったのだが、まずは少しずつ基礎体力をつけて行くのが肝心だ。

そして、あれほど嫌がっていた病院での精密検査。それは今後のカリキュラムを組むためにもぜひ必要なデータだった。そこで病院のスタッフに協力してもらい、ルビーが怖がらないように検査機器を外に持ち出し、医者や看護士もそれとわからないように返送してもらった。そして、出来る限りのデータを遊びながら取ることにした。結果は……。やはり、彼の脳には致命的なダメージが有り、運動面、知能面において発達の遅れが認められた。が、失われた脳の機能を補うため、通常では使われていない脳の一部が活性化している事もわかった。
「人間の脳については、研究分野としてもまだ未知数なのです」
と医者は言った。

ルートビッヒ フォン シュレイダー。それが彼の本名である。収集されたデータによると、彼は出産時の事故で仮死状態で生まれた。その結果、脳が酸素欠乏を起こし、損傷した。そのため、大切な機能のほとんどが失われてしまったのだ。その事実を告げられた時、彼の両親は苦悩した。が、何とか彼を普通の子供として育てる決意をする。そこで、あらゆる専門家の手助けを得て、0才の赤ん坊の頃からリハビリと情操面の教育を始めた。

初めは絶望的だと言われた歩行機能も言語機能も獲得した。文字の認知や計算などは今でも習得する事が難しい課題となっているが、父母の努力によって獲得した言語は思わぬ成果を上げることになった。両親の母語であるドイツ語と日本語、更には教養として始めた英語やフランス語まで使いこなすことが出来るようになった。

また、ピアニストである父の影響か彼は幼児期に絶対音感も手に入れている。そして、6才の時、それまで触れた事さえなかったピアノでいきなりショパンのワルツを弾いたという。それまで細かい指の作業は困難と見られていた周囲の見解を一変させる事件だった。そして、それをきっかけとして彼はピアノにのめり込み、みるみる才能が開花して行った。周囲の人々は彼のことを天才だと言った。たとえハンディを持っていても、才能に恵まれ、社会に出て行くチャンスを掴んだ彼を見て、両親は喜んだ。が、残酷な運命の歯車は彼に順風満帆な人生を歩ませてはくれなかった。

「異常はないだって?」
ギルフォートは医者からの報告に納得が行かなかった。
「心肺停止を起こしたんだぞ」
しかし、医者は子供の心臓や肺に異常は認められず、特に問題となるべき持病などもないと言った。
「確かに、彼には発達の遅れがありますし、他の同年齢の子供に比べると体格や体力の面で相当な遅れがあります。加えて虚弱なところもあるので風邪をひき易く、発熱し易いところがあります。しかし、内臓機能に問題はなく、聴力視力に至っては普通の者より勝っているような部分さえあるのです。恐らくは、一過性の脳貧血を起こしたのではないかと……」
「わかった。もういい」

ギルフォートは提出された彼のデータを見つめた。
「未知数の存在か……」
損なわれた機能を補うために呼び覚まされた第2の脳……。本来なら消えていたかもしれない命……。それが今、新たな才能と共に目覚めてここにいる。
「何のために……?」

――神は時々そういう者を送り込んで、社会を、人間の在り方を試そうとなさるのです

「社会を再生するために……か?」
馬鹿馬鹿しいとギルフォートは思う。が、彼は書類を揃えてファイル棚に戻した。
「おれは、おれのやり方で奴を育てる」
ピアノの才能も特別な力も関係ない。
「人間として、強く育てる。社会悪を滅ぼすための正義の礎として……」